私の韓流ヒストリー③ 韓国語授業編

アンニョンハセヨ。編集長の野田です。

 

ただいま、私の韓流ヒストリーをつづっています

小学生のときから韓国に憧れを感じていた歴史少女のわたしは、18歳のときに京都の大学に進学。 

ここで韓国語と出会い、韓国留学を実行します。

今回は、わたしの人生を決定づけた大学時代を振り返ります。

 

 大学に入り、第二外国語を選択することになったわたしは、ここで大きな幸運と出会います。中国語、フランス語、イタリア語、ドイツ語と人気の語学が並ぶ中、当時としてはまだ珍しく、韓国語を選択することができたからです。

文学部の友人たちが、どの語学にするか迷う中、私は「これしかない!」と、迷わず韓国語を選びます。1996年当時、第二外国語で韓国語を選択する生徒はほとんどいなく、わずか6人の教室でした。今思えば、それが韓国語を学ぶとてもよい環境でした。ネイティブの先生と在日コリアンの先生、ここでいろんな先生方と出会うことができ、さらには、韓国語を本気で勉強したい人があまりにも少なかったため、その先生方をほぼ独占することができたのです。覚えの悪い私を丁寧に指導してくださり、いつのまにか、「発音がいいね」「韓国人みたい」とほめてもらえるようになり、「もしかしたら素質ある?」なんて、時に自画自賛もしながら、韓国語学習を楽しむようになりました。

 

どの先生もとても親切で、フレンドリーで、家に招待してくれたり、辛ラーメンパーティを開いたりしたこともありました。研究室に遊びに行くと、おやつにふかし芋をくれたのも覚えています。この、なんとも素朴なおやつに韓国人のあたたかさを感じたものでした。先生との出会いで、韓国という国がどんどん好きになっていき、1年生の夏休みは、交換プログラムを利用して高麗大学へ1ヶ月。2年生の冬休みには個人で手続きをして、韓国外国語大学へ2ヶ月、留学しました。

 

そして、二十歳を過ぎて3年生になると、やはりきちんと1年間はソウルに住み、本格的に語学を学んでみたい。どうせなら、韓国語の文献をもとに卒論を書いてみたいとも思うようになり、3年生の終了後に休学届を出し、ソウルの延世大学の語学堂に1年間、留学することになりました。

 

 この頃、歴史を学んで考古学者になるという夢が少しずつ変化していき、在日コリアンの人権問題、従軍慰安婦問題など、日本人として避けてはならない社会問題のほうに興味が移っていきました。大学にいた在日コリアンの学生たちの集まりにも積極的に参加し、彼らの揺れるアイデンティティーに触れ、ともに悩み、日韓関係の奥深さを肌で感じるようにもなっていました。

 

ただ、せっかく文学部に入ったので、せめて大好きな博物館で働くことができるよう、学芸員の資格だけは取ろうと決めていました。今、考えると奇跡だったのですが、4年生の時に学芸員の実習先として派遣されたのが、京都で朝鮮半島の美術工芸品を展示している高麗美術館でした。こちらの二代目館長は、上田正昭氏という著名な古代史学者。朝鮮半島と古代史という2大キーワードが重なった高麗美術館で学芸員の実習が受けられたことにとても興奮したのを覚えています。この時に書いた実習感想文は、学生を代表して何かの冊子に掲載されました。この時、初めて、自分の好きなことを書いて人に伝えることの喜びを感じました。

幼い頃は勢いで「考古学者になりたい!」と言っていたわたしですが、この博物館学芸員という仕事も、同じくらい狭き門であり、学部卒で就職にあずかれるケースはほとんどありません…。その現実の難しさを目のあたりにした私は、「歴史」への夢が徐々に趣味レベルに下降していき、反比例するかのように、韓国という国を伝える仕事がしたいと思うようになっていました。1年間のソウル留学を決めたのは、ただ語学を習得したかったわけではなく、韓国という国自体をもっともっと知りたいと思ったからです。

 

 

(私の韓流ヒストリー 留学編に続く)